大分県臼杵市、臼杵湾内に浮かぶ小さな「黒島」は、港から約300メートル、渡し舟で3分程度の位置にあります。昭和時代、黒島は海水浴客でごったがえす一大リゾートで、植樹したヤシの木々はまるでハワイのようでした。近年は遊びが多様化し、以前ほどの賑わいはありません。その代わり、海水浴場として栄えた頃は忘れ去られていた歴史が、あらためて掘り起こされ注目を集めています。江戸時代のはじまりに大活躍した外国人2人。彼らが初めて踏んだ日本の地が、ここ、黒島だったという史実です。
徳川家康に仕え、「青い目のサムライ」と呼ばれたイギリス人のウィリアム・アダムスは1600年、オランダ船リーフデ号とともに大分県臼杵市黒島に漂着しました。当時、コショウなどスパイスの貿易はスペインやポルトガルが牛耳っていて、スペインから独立したばかりのオランダには入手が困難でした。そこで独自のルートで調達しようと、東南アジアの島々を目指し出航したのです。さらにはその先の、銀の産出量の多かった日本にも魅力がありました。
大海原の旅は苦難を極めました。オランダを出航した5隻のうち4隻は、スペインやポルトガルにだ捕されたり、悪天候に翻弄され沈没するなどして、日本にたどり着いたのは、リーフデ号ただ1隻。110名の乗組員のうち、生き残っていたのは24人だけでした。その中に、ウィリアム・アダムスとオランダ人のヤン・ヨーステンがいたのです。
黒島にオランダ人とイギリス人が上陸したことを聞いたイエズス会(カトリック系)は、プロテスタントである彼らを処刑するように急き立てました。ですが先見の明のあった五大老のひとり、家康は、ウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンを呼び寄せ、彼らと話すうち、有益な人材であることを見抜いたのです。家康の見立て通り、ウィリアム・アダムスはその後、大型船を造るなど、家康を満足させました。家康から神奈川県三浦半島の土地を与えられると、三浦半島の三浦、水先案内人という意味の按針で、三浦按針と名乗るようになりました。
一方のヤン・ヨーステンは、オランダ商館を設立し、鎖国中の日本で唯一のヨーロッパとの窓口になりました。ヤン・ヨーステンの和名は耶揚子(やようす)。与えられた屋敷は現在の東京駅あたりで、「八重洲」の名前の由来と言われています。
臼杵市黒島には、2人の像やリーフデ号の記念碑、漂着から400年後の西暦2000年にオランダから寄贈された日時計などが飾られています。航路が描かれた大きな地図を、足下に見ることもできます。
三浦按針たちが乗ってきたリーフデ号は、ガレオン(ガリオン)船と呼ばれる帆船で、臼杵市民会館のエントランスにその大型模型を見ることができます。船尾には、船の安全を願うオランダの哲学者エラスムス像が接合されていました。オランダ最古の木像と言われるこのエラスムス像は現在、東京の国立博物館に収蔵されています。
日本の国に大きな足跡を残した2人の外国人の日本での事始めが黒島でした。美しい砂浜で静かなさざ波の音を聞きながら、420年以上昔の景色を想像してみました。彼らの見た景色は、今とそんなに変わっていないように思えました。
イベント名 | わがまちの海の大発見!臼杵市黒島 |